始末に困る人

仕切り直してみました(2回目)

「すべては自分次第」を都合よく解釈して、モヤモヤから逃げて納得する理由に利用しないこと。

コントロールしようとすることの苦しさ、
 
わたしが一番逃げたかったものは、苦しい気持ち。モヤモヤする気持ち。イライラしてしまう自分。
そういうものをなくしたくて、それらがなくなること=幸せと思っていた。
 
なんとなく、人生とは「いかに苦しみから逃れるか」「いかに得(いい気分、幸せな気持ち)を多く取るか」だと考えていて、
 
だから不快な状況や人間関係や物事を排除しようと頑張り、
快適な状況や人間関係や物事を得ようと頑張り、
 
そういうことを続けていたんだなあと思った。
それがわたしの人生の生き方だったんだなあと思った。
だから、その通りの現実が現れていて、いいこともあれば嫌なこともあるさ。これが人生。みたいなことが続いてきたんだなあって。
「スッキリさせなければならないモヤモヤした感情」を、発生させてくれる出来事が、これでもかというほど現れてくれていたのかもしれない。
だって、わたしがそれを望んでいのだから。
 
先日の家族のことの記事も、読み返していてなんか違和感だなあと思ったのは、
「もう家族には関わらないことに決めた。わたしはわたし。」というような、
決めた!と宣言しているようで、どこか逃げているというか、奥に抱えているものを必死で見ないようにしているような気がして、
 
書いてみたらやっぱり色々出るんですね。
家族への思いも、自分の気持ちも、ぐちゃぐちゃした苦しいものがたくさん、まだある。
「決める」と宣言するのも大事だけれど、
「決めた」から、それらのぐちゃぐちゃがスッキリ解決するわけじゃない。
わたしはここを勘違いしていたようです。
 
なにかでまた感情が揺れたとき、
たとえば家族と接していて嫌な気持ちが湧き出たり、過去の辛さが蘇ってきたりしたときに、
「わたしは、関わらないと決めた!」という魔法の言葉を持ち出して、
「関係ない、関係ない。。。」って唱えれば、なんとなくスッキリしたような気になれる。
 
そのぐちゃぐちゃした、味わいたくない嫌なものたちから、一時的に逃れられたような気になれる。
これでは元の生き方と何も変わってないと思った。
それらを避けることにエネルギーを全力で注いでいて、嫌な気分があるかどうかで自分の幸福度が決まるような。
 
そういう、「わたしは〇〇と決めた!」と、「トラブルが発生したらこうすればとりあえずスッキリ」みたいな、
マニュアル作成しておいて機械的にそれに従えばとりあえず消火できるみたいな、
 
それってお手軽でラクのように見えて、なんか自分のことを心底ナメてる態度だなあと思う。
 
もし自分が他人にこういう扱いをされたら心底傷つくと思う。
わたしが「こういうことがあって悲しい」って泣いていても、
「忘れちゃえばいいよ!関係ない関係ない!ほら大丈夫!」って聞いてもらえなくて、
 
早く忘れて元気になろうよ、みたいな、
傷ついて泣いてるわたしを無視されてなかったことにされて、
そういうわたしには存在価値がない=ダメ、とみなされて、
早く元気になれ!早くスッキリしろ!って追い立てられたら、
 
そりゃあ傷つくよな。。って思う。
傷ついているわたしのことも、ちゃんと見てよって思う。
わたしの話をちゃんと聞いてよ、傷ついてるって認めてよって思う。
 
家族のことも、今は関わらないと決めているけど、
だからと言って発生する悲しみや苦しさから逃れる言い訳に使わないように気をつけようと思いました。
 
人生で、自分で決められることって本当に少ないんだなって思います。
「すべては自分が決めている」という言葉、
これって言葉通りの意味とは少し違うんじゃないかなって。
 
最近、今の状況について明めたとき、
卒業だけはしたいって自分で決めたんだから嫌な人と会わなきゃならないのも自分のせいだって出てきて、
 
それは、そうなんだけど、
でもそうじゃないというか。。
 
「だから仕方ないのよ」って思えば、少し苦しさが解放されたような気持ちになれる。
そういう、「だから仕方ないんだ、これでいいんだ」って自分に言い聞かせるためにその理由を探してたんだとしたら、
そのために「すべては自分次第」の言葉を利用するのはとても危険だと思った。
 
自分で決めればいいのだけど、
「だからこれでいいんだ」ってそこに着地して安心したいがために、頭で納得できる理由を探す視点になっていないか、
そのために「自分次第」「自業自得」を都合よく使っていないか、よく疑ってみようと思いました。
 
 
それともう一つ、
「わたしは〇〇と決めた!」と言い聞かせて、「自分次第」を言い訳に利用し出すと、
どんどん自分の殻に閉じこもりがちになるというか、
「わたしはわたしなんだ!」ってなんか変な方向に強気になってブスになっていく気がします。。
 
自分次第=自分の力、ではないんですよね。
わたしが決めている=わたしにコントロールする力がある、ではないんだと。
 
そこを勘違いすると、
自分の世界に閉じこもるようになって、
人との関わりを絶ってしまうような方向にいってしまうんだなって。
 
人との関わりを絶ってなんでも自分一人で解決できるようになることがゴールじゃないし、
そもそもそんなことできなくて、
 
たとえばわたしは「家族と関わらないと決めた」としても
それは「家族のネガティブまでわたしが進んで引き受けて疲れるのをやめる」ということで、
 
事実わたしは家族がいるからこそ生かされてきたわけだし、
何かあったときに帰れる実家があり、家族がいる、というのは、
その関係性が今どうであっても、とてつもなく大きな支えなんです。
 
その事実を無視して「家族に関わらない」というのは、ただの傲慢だと思う。
事実わたしは助けられていて、その事実をちゃんと認めた上で、それでも、
「ごめんなさい、わたしはこれはできません」と負けること。
 
大学のこともそうです。
「わたしは頑張らないと決めた」ところで、そのぶんを引き受けてくれる人が、いるんです。
その罪悪感も抱えていかなきゃならない。
そこを見ないで「わたしは決めた」としても、何の意味もないしただのワガママなやつになってしまう。
 
だから、わたしができないぶんをサポートしてくれる同僚の存在が、やっぱりありがたいし、
感謝と罪悪感でいたたまれなくなるんだけど、それも抱えていく。
そうすると、本当にどんなことでも心から感謝が湧いてくるようになって、
頭で「感謝しなきゃ」ではなくて、自分の至らなさを抱えたままその事実を見ると、本当にありがとうって思う。
 
今も、嫌な顔ひとつせずにわたしに代わってくれたり、
無理しないでくださいねって逆に気遣ってもらえたり、
なんかそういうことが、うまく言えないけど本当にありがたいです。
 
スッキリしないんだけど、どこか少し、見える世界が違ってきたように感じています。
コントロールしよう、
嫌なモヤモヤをなくそう、
感謝しよう、って、
「自分が」そうしようって力を入れていた時と、違った感じ。
 
やっぱりバランスが大事なんですよね。。言葉でうまくまとめられないんだけど、バランスが大事かなと思います。
 
そういう、矛盾したものたちも、あとからあとから湧き出てくるぐちゃぐちゃも、罪悪感も、逃げたくなる気持ちも責めたくなる気持ちも、
そういうものたち全部、無限に受け入れていく、
出てきたら、それも全部、自分の領域に存在を許して抱えて生きていく。
 
ひとつずつ、ゆっくりやっていこうと思う。