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始末に困る人

背伸びしないで、かっこつけないで、素直に生きてみる

山籠りで体験した不思議なことについて

これに関して答えみたいなものは出てないけれど、

わたしが感じた感覚は確かに在った、とやっぱり思うので書いておこうと思った。

そう感じた自分の感覚を疑ってたんです、

気のせいじゃないかって。

でも感じたことは確かに在った。

わたしが感じたことは。

わたしが感じたことを、否定しないで、ただ書いておこう。

 

(※めちゃくちゃ抽象的な話な上に長いです・・・)

 

生理がきてたこと、

そのせいか感覚と感性がすごく敏感になってたこと、

さらに飛行機に乗って「死」をリアルに考えるきっかけが私なりにあったこと、

 

あとはやっぱり「場」の特殊性もあったと思います。

とにかく不思議な場所でした。

自然と無理なく共存していて。

人間も自然の一部として、ただそのままそこに在る。

タイムスリップしたみたいだった。

 

そこにいたメンバーも、きっと何らかの意味があって集められたんではないかと。。

だってわたしの力なんて何も働いていなくて、

「わたしが」「何かをしたから」「そうなった」ことなんて一つもない。

なのに、そういう人たちが集まってそこにいた。

同じ人たちが。

偶然であるともいえるし、必然であるともいえると思います。

わたしの頭なんかでは分かれないんです。

 

「何か」があるんだと思う。

それは神様というのかもしれないし、宇宙とか大いなる存在とか、

目に見えない何か、とか。

なんでもいいけれど、「何か」っていうのはあるんだと思いました。

 

わたしはその「何か」から与えられるしかない。

 

「わたしがなんとかできる」ことなどない、何一つない。

卑屈で言ってるのではなく。ほんとうにそうなんだとただそう思った。

 

ここ最近の、脱力したような状態は。

どんどん「わたしの力だと思ってたもの」が崩れ落ちていく。

目の前の一つ一つをとらえる度に、

「わたしの力でできる」ということがほんとうにない。

 

どんどん、自分がなくなっていくような感覚がした。

落ち着かないのは、

今までにないものが入ってきたから

「今までのわたし」で処理できる範囲を超えている。

 

ここへ来るまでの道のりを、現実的に書き出してみれば

あのときこの人に会ったからとか

ここへ参加したからとか

そういう流れを、それはそうだと理屈で説明できるけれど

 

でもそうじゃなくて。

やっぱり感覚だったんです。

分かれ道は。

わたしが「決めたから」でした。

その感覚にだけは、

誰が何と言おうと従おうと、決めてたんです。

 

それをわたしはずっと忘れてました。

意味のないことなんかない、

「何か」というのがあって全て完璧なんだと思うんです。

理屈なんて分かれなくても、そういうふうになってるんだと思うんです。

 

本気で人を好きになるほどに見えたのは、

情けなくて惨めで無力でわがままで自分勝手でどうしようもなく醜い自分。

繊細で傷つきやすい、感じやすい弱い自分。

ただの女の自分。女でありたい自分。

それらと向き合わざるをえない状況、タイミング、環境・・・

 

だって、それだけ本気で何かを直感で感じる人に、

それだけ心を揺さぶられる人に、

自分のすべてを映し出してしまうような人に、

これまでのわたしの殻を叩き壊してありのままをさらけ出させるような人に、

 

今、出会えていることに、意味がないわけがない。

いや実は意味なんかないのかもしれない、それは分かれなくて、

でも意味があるとかないとかそういう外側は関係がなくて、

ただ、わたしはそこから受け取りたいと思ってるんです。

無意味なものにしたくないと、「わたしが」思うからなんです。

だからやっぱりぜんぶ自分なんです。

 

だから、会えなくなってもわたしは幸福でなくちゃいけない。

今一緒にいると、別れを想像しにくいし、したくないけど。

いつか必ずやってくるのだから

明日か一年後か10年後か50年後か分からないけど

それだけは必ずやってくるから

 

その人がいなくなってわたしが一人になっても、どうなっても

わたしがわたしとして立って歩いていけること。

 

わたしの人生が、別れたあとの人生が、より幸福であること。

 

幸せにならなくちゃいけないんだ。

 

外側にシフトし続けていた視点が

ゆっくりと「わたし」に戻ってきた感覚がありました。

だからやっぱりぜんぶ自分でした。

 

非常に抽象的で感覚的な思いなのですが、

座禅を組んでいたときに、こういう感覚になったんです。

 

頭で考えていたのかもしれません。

また都合よく、頭で説明しようとしていたのかもしれないけど、

こういう思いがそのとき確かにわたしに在った。

 

 

 

わたしがなんで政治や歴史に関心を持ったのか。

 

自分を大切にすると決めて。

やりたいことをやろうと決めて。

そのとき自然に浮かんできたのは、今やってるようなこと。

ほんとうは政治家や、世の中をよくするために何かをしたかった。

そしてそれを今やっている。

 

正義感ではないか?と指摘されて、

なんで政治とかそういうことに心が引っかかったの?と聞かれて

答えられなかった。

疑ったこともなかったんです。

自然と浮かんできていたし、それをやる自分が正しいと信じ切ってたから。

 

まだ分からないけど。正義感ももちろんあって。

でもそれだけだったら、

「世の中を正すわたしすごい」をやりたいだけなら、

もうとっくにやめてる、こんなこと。

 

 

ずっと引っかかっていて、はっきりしなくて、

でも最近思い出したことがあったんです。

ただ自信がなかった。自分がそう感じたことに。

そんなわけないって。

気のせいだって、思い込みじゃないかって思ってた。

 

でも確かに、記憶はぼんやりしているけど

「何かをしよう」「一歩踏み出そう」と思ったきっかけがあった。

 

座禅組んでいたときに、

うまくいえないんですけど、やっぱりそうだと思った。

この人を見たことがあると思った。

わたしは2012年に仕事を辞めました。

「好きなことをやろう」「一歩踏み出そう」とその時すごく思っていて、

それはなぜそう思ったのか、

 

ちょうどそのとき選挙があって、

当時のわたしは政治とか歴史なんて何も関心がなく生きていたけど

その人が演説で自分の思いを語っているのを見た。選挙だったから。

たぶんその人だった。

たぶん、何か感じるところがあったんだと思う。

若いのに政治家なんてよくやるなーって、冷めた目で見ていたきがするけど・・・

 

なんでだったんだろう。

自分で決める、という言葉が心に引っかかったのかもしれない。

自分で決めましょうよって。

周りに流されないで、自分のことを自分で決めましょうよって。

人にどう見られても、なんて言われても、

自分がこうだと思うことを自分で決めてくださいって。

僕がまずやりますから、行動して見せますから、

だから、みなさんも一緒にやってくださいって。

 

今もずっと同じことを言っている、

わたしはそういうところが好きだと思った。

気のせいかもしれないけど、

でも、たぶん。今回、そうだと思いました。

あの時の人でした。

 

確証がないから、なんというか・・・

状況が状況だけに、思い込みかもしれないとか気のせいだとか

今一緒にやってるからそんな気がしてるだけかもとか

頭が否定してくるし本当にわからないのですが

でもそのときに「何か」があって、今のわたしになった。

 

その、「何か」というのが、やっぱりある。

分かれないけど。わたしの頭では。

5年たった今、その何かに従って動いていった結果が今なんです。

たしかに今その人が目の前にいて、

感じている感覚は、同じだと思いました。それだけははっきりと。

 

 

 

 

その日の夜にノートに書きなぐった内容なんですが、

自分でも何いってるのかよくわかんないな。

とにかく不思議な体験をしました。

座禅って初めてやったけど、

部屋で同じように瞑想とかしてみてもなんか違うので、

やっぱり場の力とか、そこにいる人たちのエネルギーとかがあったんだと思う。

 

 

書いていて思ったけど思いきり人違いでした!ってこともあり得る、けど

「何か」をそこに感じた感覚は絶対同じです。これは確か。

 

分かれないと思うけど、

このまま進んでいったらきっとまた見えるものがあるんだろう。

きっと常にアップデートなのです。

だからその都度、自分と向き合っていこう。

 

 

今日はこんなところです。