始末に困る人

ちょっと仕切り直してみました

ただの自分のことを知っていくこと、自覚していくこと。楽しみながら、日常を生きる。

突然ですが、

 

私は昔、どうにも生きづらくてしょうがなかったときに、いわゆる引き寄せとか潜在意識のことを勉強して取り入れてた時期があったんですよね。

ちょうど引き寄せの法則などが日本にも浸透し始めていた時期で、本屋さんにもそれ系の本がたくさん並んでいて。

 

本もたくさん読んで、知識がついて、実践もしてみました。

毎日「私は〇〇です」と唱えるとか、なんちゃらメソッドとか、事実をポジティブに書き出すとか、ありがとうと100回言うとか、強くイメージしてどうたらとか、いろいろ。

どうでもいいですけどこういうのってほんと種類多いですよね。。

 

で、一時的にそれっぽい効果が出たようなときもあったんですけど。

でもそれは、潜在意識の分野について何も知らずにいたところを「こういうふうにしてみましょう」というのに従って行動を変えたみたわけですから、

それまでと全く違う行動やパターンを選択したので、新鮮な反応や視点が得られてきたりするのは当然で。

 

私の考え方や在り方や軸や、自分が何者なのかとか、そういうところを全く知らずに表面だけ変えたに過ぎないので、長続きしませんでした。

 

長続きしなかったというか、苦しかったからすぐやめてしまったんですよね。

 

苦行と同じで、

「こんな自分じゃダメだ」って無理やりムチ打って変えようとしてたので、

そんな嫌なことを毎日、一生続けていくなんてできなかったんです。

 

自愛もやりましたけど、同じことで、

「そのままの自分を愛して許せるようになれないと私はだめなんだ

という精神でやってたから。構図としては全く同じで苦しかったです。

 

要するに、その時の自分を否定していたから。

今を生きていなかったからかなあと、思います。

 

今も「あの時の疑問がすっきり分かったぞ!」とかそういう感覚は全然ないんですけど、

思うのは「結局続けなきゃ意味ないよね」ってことです。

 

だって人生は毎日続いていく日常なんだもの。

 

何か不自然な、力まないといけないような要素を取り入れても続かないし、

それによって力技で何かを達成したとしても、そしたら今度は失う怖さがセットでやってくるから、ずーっと力みながら生きていなかきゃいけなくなる。

 

そうじゃなくて、どうしてそんなにいろいろなことに手を出してみたりしたのかって、

今も「自分を生きる」をやっていて同じことだけど、

この日常を楽しみたいからだと思うんです。

 

もっと素晴らしい物や事を手に入れて、

もっと素敵な環境や状況を引き寄せて、

もっとより素晴らしい自分になって、

もっと人に褒められるような自分になって、

 

それで結局どうなりたいのかって、ただ「毎日を楽しんで生きたい」。

 

ただそれだけ。

 

でも、ただ「良さそうな現実」だけが向こうからやってきてくれても、

それを生かして楽しんで生きられなかったら同じことだと思うんです。

 

最近、環境がいろいろ変わったこともあるのですが、

結局自分の欲望にはきりがないってこともわかったし、

 

「これさえあれば(これさえなければ)」と思ってたことが、

いざその通りになっても、

今度はすぐさまそこから新たな不満を探してるんです。

と、いうことが自分の性質として、実感としてわかった。今更ですが。。。

 

だから、

「これがこうなってくれさえすれば私の人生カンペキなのになあ!」

って思って、そこを狙って焦っても、意味ないというか。

 

つまり「今手元にあるものでどれだけ楽しめるか」ってことだと思うんです。

「もっとこうであれば・・・」も抱えつつ、

でも今はそれしかないんだからしょうがないじゃないですか。

 

で、どうやったらより日常を楽しんで生きられるだろうと考えたら、

それには自分のことを知らないといけないんですよね。

 

自分を知ると一口に言っても奥行きは無限にあって、

ただめんどくさいことはキライとか、楽にのんびり生きたいと思ってるとか、

それも自分の一面ではあるけど、

それをきっかけにしてその奥の思いや感じている事を引き出していくことかなと。

 

「ただめんどくさいことはキライだから→怠けてダラダラする」

 

でもいいんだけど、

なんで頑張りたくないのかなとか、

今向かっているこれに対して何か抵抗があるとか、

それはなんでだろうとか、、、

 

問いかけは無限にあると思うのですよね。

 

それをせずして、

ただ怠けてダラダラする♡をずっと続けても意味ないと思うし、

 

ほんとの自分に対して失礼だし、

自分を無視しているということになるし、

それって全然自分を愛してなんかないよねっていう。

 

 

人生で起こることはすべてその人のためになるんだとか、

よく言われることですけど、

 

それもやっぱり表面的に「こういうことが起こったということは、私がこうであることに気づけということなのね。わかったわかった。」と捉えるだけじゃなくて、

 

その「起こること(いいことも悪いことも)」はきっかけでしかなくて、

 

本当に分かれ道になるのは

 

そこからいかに自分を見つめる方へ自分を持っていけるか、

それをきっかけとして自分の声を聞いてあげる覚悟を持てるか、

それをとにかく事実自分の手でやるか?

 

という、その後の身の振り方みたいな方なんじゃないかなと思います。

 

だから、どういうことが起こったとか、その内容については実はどうでもいいことなんじゃないのかなって。

 

さらに、

それによって「自分のこういうところが分かった!」ってなるのもいいし、でもならなくても別にいいんじゃないかと思うんです。

 

そうじゃなくて「姿勢」というか。

 

ただの自分の、

本当の自分の声を、

一生懸命聞いてあげようとする姿勢そのもの。

 

それが大事だし、

大事と言うか、私が本当に求めているものじゃないかなって。

 

それを自分にやってないから人に求めたがるんだと思うんです。

「私をわかってよ!」

「私の話をきいてよ!」

って。

 

だから、その「姿勢」を、ただただ意識して、

自分のことに集中していく毎日は、

なになにメソッドとかと違ってやっぱり本質的には楽しくて安心することだと思う。

 

どうしてこんなに欲望が尽きないのかなって考えたら、

やっぱりその根底には「愛されたい」があって。

親に愛されたい子供みたいに。

「もっと素晴らしくなれば愛してもらえる」って思っている。

 

だから、親とかパートナーとか、つい人にそれを求めてしまいたくなるんだけど、

 

ほんとの望みは「今の自分を自分自身に愛して欲しい」だと思うのです。

 

私は親に愛されたい願望もパートナーに愛されたい願望も

めちゃくちゃ強くて、すごく執着してるなと思うんですけど、

そういう性質であることを差し引いても、

それだけ自分自身が自分に関心を向けて見てあげる、ということが足りないんじゃないかと思う。

 

自分が、自分に対してサボってるから、

お手軽に与えてもらえそうな人にすがる。

「ほしい、ほしい」って。

 

でも外側から与えられるものを軸にすると振り回されて結局自分が苦しいし、

仮に愛してもらえても失う恐怖でいっぱいになってしまうし(それがないと困るから)、

だから遠回りなようでも、やっぱり地道に自分が自分に対してそれをやっていくのが一番王道なんではないでしょうか。

 

そして、そうやって

「自分が自分に対して関心を持つ」

「自分が自分の話を聞いてあげる」

「自分が自分をわかってあげる」

 

ただただそこを主軸にして生きるということは、

つまり現実に起こるいろんなことはあくまでも「きっかけ」であって、

そこから自分にどう目を向けて掘り出していくかの方に目を向けているので、

 

その内容(思い通りになったとかならないとか)は、

「どっちでもいい。」になっていくのかなと思います。

 

そうはいってももちろん望みとか理想はあるし、執着も全然していいと思うけど。

 

私ね、自分の人生は自分のせいだって意識することをやってきて、

でもなんか思考がごちゃごちゃうるさかったなって思って、

とにかく徹底的に「事実そうである」と自分に押し付けてみることを最近ずっとやってたんですよね。

 

言い訳とかいいから、とにかく今目の前に展開している世界はすべて私がそう望んでるからそうなってるんだってことを一度ただ認めたんです。

 

思い通りになってくれないこと、

こうなってほしいのになってないこと、

問題としか思えないこと、

 

あるけれど。

私がそう望んでいるからそうなっているんだって。

べつに「だから私が悪いんだ!私の自己責任!どうして私は・・・!」とか責めるためじゃないし、

あるいは「だから私のこういうところを今すぐ直さなくちゃっ!」って焦って行動するためでもなく。

 

よくわかんないけど、とにかく私がそうさせてるんだなって。

ただ見たんです。

 

自分が無意識にでも作ってきた目の前の事実に、

やるせないような脱力するような、

へんな気持ちになったけど、

 

不思議と、ここから始められるんじゃないかという希望が湧いてきたような感覚もします。

 

自分が作っているなら、

 

その問題と思えるものたちをそのまま味わって苦しんで楽しむ人生も、

あるいは問題を自分が作ってしまったことはもう仕方ないと事実を諦めて、

それは仕方ないからもうそのままにしておいて、でも今できることは何かないか考えてやってみるのも、

 

選べるということだから。

 

やっぱり、そういうところにこそ自分の勇気とかエネルギーを割いていきたいなと思ったのです。

なんか、現実をこちょこちょこねくりまわしたりするんじゃなく、

そこにすべてを持っていかれるんじゃなくて。

 

なんかそんなことを感じていて、最近。

やっぱりただシンプルに「自分」でしかないのだなあと思います。

人生を思い通りにするとか、

これまで負け組だったのが悔しいから逆転したいとか、

何か外側の環境を整えることで穏やかになるとか、

 

そういう表面的なことじゃなくて・・・

なんだろう、

本当に、自分の人生を自覚して生きる、ということ。

自分で」。

 

誰かのやり方をなぞったり追いかけたりするのでもなく、

現代社会の常識に照らして合格点を得られそうなラインを狙うでもなく。

 

そうじゃなくて、

そこをお手軽にテンプレートを持ってきてそれで済まそうとするんじゃなくて

そこちゃんと「自分で」考えてやろうよ、

ってことかなと。

 

それが結果的に、

憧れの人と同じようなのがいいとか、

 

社会に合わせるのもこれくらいは必要とか、

そうなるのは別にいいと思うんです。

 

だから大事なのはやっぱり「自分でやること」なんですよね。

 

自分の人生、

それくらい自分がやらないで、

人に愛されるも楽しい日常も何もないと思います。

 

 

ーーーーーーー

 

私で言うなら、

改めて今の目の前を見渡してみて、

 

いろいろあるけど毎日生きていけてるだけで十分だなあって。

やっぱり思うんですね。

 

その、「私がすべてこの現実を叶えている」って思ったら、

 

「こうなってほしいのになってない 」ことは、

私が「実はこうなってほしくない」って望んでるということだし、

 

意味わかんないしなんで?って思うんですけど、

「こうなってほしくて」自分の考えを変えるとか、

その原因探しみたいのをするのはやめようと思うんですよね。

 

それよりただそこをきっかけに自分の抵抗心とか、

私はこれが嫌なんだとか昔の嫌な出来事の時にこれが嫌だったとか、

「そうなのか」って見て留めることにとどめておいて。

 

それで事実「こうなってほしくない」が私の思いならそのままでいいじゃんって思いました。

 

例えば「家族と和解したいのにできてない」とか。

できてないじゃなくて「私が和解したくない」ってことかと。

なら、口で「いや本当は和解したいんだ!」ってそっちに無理やり持っていくより

事実「和解したくない」んだからそのままでそれが叶ってて、それでいいじゃんって。

存分に「和解したくない」現実を楽しめばいいんじゃない?と。

で、ほんとに嫌になったら何かするだろうし。

これは例えですけど。

 

語弊があるかもですけど。

いろいろ、諦めてしまっていいじゃないって思ったんです。

そうならなくてもいいって。

そうならないなら、ならないで、仕方ないのだから、今生きていて享受できている日常で、少しでも自分の楽しいこととか、心地いいことを選んでいけばそれでいいじゃないかと。

 

叶わないなら仕方ないし、もうそのために奔走するのは疲れました。

ほんとは何かを変えるために奔走したり焦るのはすっごく苦しかった。

「自分を生きる」ですら、その手段になっていた。

 

「休む」ことすら、手段にしてたんだもんなあ。。。

そうじゃなくて、ほんとに力を入れることをやめるってことです。

やめてみたらやっぱりまたやりたくなるのかもしれないけど、一度ほんとにそういう姿勢に切り替えてみようかなーと思っています。

 

 

とりとめないですが、なんか今はそう思っているってことです。

今日はこんなところです。

 

 

 

 

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